分娩の痛みのピーク ~私の場合~

坂田陽子

記事監修者:坂田陽子

助産師/看護師/国際認定ラクテーションコンサルタント/ピーターウォーカー認定ベビーマッサージ講師/オーソモレキュラー(分子整合栄養学)栄養カウンセラー

今から6年前、長女を出産した時には夫に立ち会ってもらいました。しかし4年前の次女の出産では夫と長女の立ち会いを断り、2人には家で待っていてもらうようお願いしていました。長女はとても繊細な子で、今でこそお友だちと楽しく走り回るような子に成長しましたが、次女の出産の頃はまだ2歳。私のそばから全く離れず些細なことで泣きじゃくり、周囲の方々が心配をするような子でした。そんな長女が次女の出産に立ち会うなんて、分娩タイムが惨劇に変わるのは目に見えていました。そこで次女の出産には立ち会いをつけず、私一人で臨むことに決めたのです。

【ひとりきりで臨む分娩】

 陣痛を感じ始めたのは明け方。まだまだ弱く間隔も20分ほどだったので、これはきっと夜が明ける頃に本格的になるだろうと思い、私は一人リビングのソファで仮眠をとっていました。7時をまわった頃、起きてきた夫と長女の朝食を準備し、入院セットを再確認してから私は病院へ電話をかけました。その頃には10分間隔になっていたので、「経産婦なんだから我慢しちゃダメでしょ!」と電話口で軽く怒られながら車に乗り込み、夫に病院まで送ってもらいました。それから夫と長女はUターンして帰宅、私は一人陣痛室で痛みとの闘いを始めました。長女のパニックを避けるために立ち会いを断ったものの、やはり一人で痛みと闘うというのは少し寂しいものです。運悪くその日は日曜日で、助産師さんも先生もほとんどいらっしゃらなかったことがまた寂しさを増していたように思います。あぁ、痛いなぁ。ぼそっとつぶやいてみても、もちろん誰からの反応もなく、いよいよ孤独に耐えられなくなった私は、痛い痛い痛~い、痛い痛ぁいと、様々な「痛い」を叫んでみました。ほらね、誰も来ない。この頃はまだそんなことを楽しむ余裕が私にもありました。

 実は今回の分娩時には、私は抗生剤の点滴をしながら臨むことになっていました。朝、陣痛室に入ってから点滴を繋がれ、ぽたぽたと垂れる抗生剤を眺めながら痛みの間隔を数えて過ごしていました。どれくらいの時間そのように過ごしたでしょう。点滴がなくなり、痛みで私の意識もなくなりそうになった頃に助産師さんが陣痛室にやってきました。一人で耐えてきた陣痛の痛み、やっと終わる、やっと助産師さんと分娩室に行けるんだ!そう思った矢先、助産師さんはこうおっしゃいました。「もう一本入れたいんだよねー。まだ産まないで我慢できる?」え。何をおっしゃいます?まさか、今終わりかけの点滴をもう一本なんてことではないですよね?いやいやそんなことより分娩って我慢できるものなんですか、神様?目の前が真っ白になりました。また今までと同じ時間ここで一人過ごさなくてはいけないのかと愕然とし、なによりこの痛みはまだピークではなかったのだということにショックを受けました。「が、頑張ります。」そう答えた私に助産師さんはにっこりと微笑んで、テキパキと点滴を交換すると颯爽と部屋をあとにしました。

また一人だなぁ。痛いなぁ。そんなことを考えながら過ごしているうちにどんどんと痛みは増していき、そうだった、陣痛ってこういう痛みだった、と再認識し始めた頃、私は一人では立っていられないほどになっていました。タイミングを見計らったかのように現れた助産師さんが力強く私の肩を担ぎ上げ、「じゃあ行こうか!」

さあここからいよいよ、助産師さんとのマンツーマン分娩がスタートします。二本目の点滴も無事に終え、私は定期的に訪れる激しい痛みに体を歪めながらその時を待っていました。しばらくしてから、いきみOKの合図をもらい、助産師さんと呼吸を合わせていきむ。もう一度、いきむ。しかし恥ずかしがり屋の次女はなかなか顔を出してくれません。あまりの陣痛の痛さに私は何度も分娩台を蹴りつけ、その都度助産師さんに注意されながら、またいきむ。何度目かのいきみでようやく頭を出した次女、首から下は助産師さんが手伝ってくれました。と、ここまでは概ね長女の分娩と同じ。次女の分娩の痛みはここからが本番でした。

【痛みを乗り越えたと油断していた私に与えられた、更なる試練】

「あれ?」次女を取り上げてくれた助産師さんが分娩台で横たわる私の足元で呟きました。それから「ちょっとおなか押すね」と言い、次女が出て行ったばかりのおなかを上からぎゅうぎゅうと押すではありませんか。何度かトライするも助産師さんの表情は晴れません。すると、頃合いを見て分娩室に来ていた先生と場所を代わり、今度は先生がおなかを押します。ちょっと苦しいな、と思っている私に先生が「あのね、胎盤が出てこないのでこれから剥がしますね。」そう、分娩後に自然と剥がれると聞いていた胎盤が私の中に残り、なかなか出てこないと言うのです。「はあ、そうですか。」と返事をしたかどうか定かではありませんが、この胎盤を剥がす行為こそが、次女の分娩の際の痛みのピークでした。今までの陣痛や分娩では出したことのない大きな声で「痛い痛い痛い痛い!」と私は叫んでいました。分娩を終え、気が抜けた状態故に痛みが増して感じられたのかもしれませんが、私には陣痛や分娩の痛みを遥かに超える人生最大の痛みに感じました。

【ようやく終えた分娩、その時に待っていたのは】

その後なんとか胎盤を摘出していただき、分娩台に横になったまま次女と添い寝すること2時間、ようやく病室へ移動出来ることになりました。胎盤を無理に剥がしたことで多量の出血をしていた私は、横になったまま病室へ運ばれました。そこには夫と長女の姿がありました。私を病院へ送りお昼ご飯を食べたあと、長女がお母さんのところに行こうよと声をかけてきたそうです。そして二人が分娩室の外に到着した時、それはちょうど、私が人生最大の痛みを感じていた時でした。「お母さん、痛い痛いって大きな声で叫んでたね。あはは。大丈夫だった?」うん。とっても痛かったんだ。長女がパニックにならないよう立ち会いをやめたけれど、こどもというのは親が思うよりもたくましく成長しているものだなと感じた瞬間でした。

この記事の監修者

坂田陽子

経歴

葛飾赤十字産院、愛育病院、聖母病院でNICU(新生児集中治療室)や産婦人科に勤務し、延べ3000人以上の母児のケアを行う。
その後、都内の産婦人科病院や広尾にある愛育クリニックインターナショナルユニットで師長を経験。クリニックから委託され、大使館をはじめ、たくさんのご自宅に伺い授乳相談・育児相談を行う。

日本赤十字武蔵野短期大学(現 日本赤十字看護大学)
母子保健研修センター助産師学校 卒業

資格

助産師/看護師/国際認定ラクテーションコンサルタント/ピーターウォーカー認定ベビーマッサージ講師/オーソモレキュラー(分子整合栄養学)栄養カウンセラー

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